有村俊斎(海江田信義)が無能といわれる3つの理由★西郷・大久保との関係は?

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こんにちは。
 
今回は、幕末に薩摩藩士として活躍した有村俊斎について、お伝えします。
有村は、結婚してから姓名を「海江田信義」と変えました。
 
 
全く違う名ですが、同じ人なのです。
 
 
明治政府の要人として生き残って活躍した人ですが、かなり評価は低いです。Googleで名前を検索すると、続けて「無能」と出るぐらいなのです。
 
 
長州贔屓の人からの評価は特に低く、私もかなり好きではありません。
 
 
ということで、今回は、有村俊斎について、その評価の低い3つの点に着目してお伝えします。
 
 

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有村俊斎(海江田信義)の生い立ち

 

 
有村俊斎は、1932年に薩摩藩士の父・有村仁左衛門兼善の次男として生まれます。
 
 
次男なので、11歳ぐらいで薩摩藩主・島津斉興の茶頭に仕えて茶坊主(世話係)になりました。
 
 
示現流剣術や薬丸自顕流剣術を学んで、大山格之助(大山綱良)らと試合をしたとも伝わります。
 
 
1849年、家督争いの「お由羅騒動」に父が巻き込まれ、有村俊斎も家禄を失いました。
 
 
失業したので、それからしばらくは貧乏な生活を送りましたが、藩主が島津斉彬に代わると許され、藩に復帰できました。
 
 
大久保利通の家も、同じように「お由羅騒動」で父が遠島になり失業して、その後復帰できたので、このことは、似たような境遇だったのでしょう。
 
 

「安政の大獄」で追われる

 

 
有村俊斎が藩に復帰したころ、西郷隆盛・大久保利通らも戻っていて、彼らと共に「近思録」という読書会を作りました。それが後に「精忠組」と呼ばれるようになったのです。
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【関連記事】薩摩の「精忠組」は、もう1つの「寺田屋騒動」の当事者だった
 
 
その後、尊王攘夷の風がますます強くなっていき、江戸藩邸で働いていた有村俊斎は尊王思想を持つ水戸藩の藩士たちと出会い、尊皇派に傾いていったのです。
 
 
でも、ちょうどその頃に、大老・井伊直弼による「安政の大獄」が始まりました。井伊直弼は、開国を進めようとする自分の意見に反対する者を次々に弾圧し処刑していったのです。
 
 
この「安政の大獄」で、西郷隆盛や尊皇派の僧・月照なとど共に有村俊斎も追われて、薩摩に逃げ帰ったのでした。
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【関連記事】西郷隆盛と心中?清水寺住職「月照」の生涯と薩摩との関係
 
 
井伊直弼による「安政の大獄」は、橋本佐内吉田松陰なども処刑した思想弾圧だったこともあり、攘夷派からかなり強い反感を買いました。
 
 
そして、とうとう江戸城の桜田門の外で、襲撃され死亡しました。それが、「桜田門外の変」です。
 
 
襲撃者は水戸藩士が中心でしたが、彼らと強い交流のあった有村俊斎の弟・有村次左衛門も、実行犯として参加したのです。有村次左衛門は、井伊直弼の首をとるのに成功しましたが、斬られて重傷を負い、その場で自害して果てました。
 
 
 
 
薩摩藩に逃げ帰った後、有村俊斎は大久保利通らとともに、関白・九条尚忠と京都所司代・酒井忠義の殺害を計画しました。でも、その計画は事前に島津久光に知られてしまい、決行できませんでした。
 
 
有村俊斎は、その後、藩の政治に従って協力したため、処罰されることはなかったのです。
 
 
弟2人がその「志」のために命を落としたのに、兄は藩におもねって生き延びたということで、当時の評価も「愚兄賢弟」とバカにされて軽んじられたものでした。(この件だけでなく、この人はいろいろ能力不足で残念な印象があります)
 
 

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「西郷隆盛の失脚」の原因を作った

 

 
この頃、有村俊斎は結婚し、妻の旧姓の「海江田」の姓をとって、海江田信義と名前を変えました。
 
 
そして、彼は伝わるところが正しければ、2つの大きな余計な事をしています。
 
 
まず、「寺田屋騒動」のときに、騒動にならないように尊皇派の志士たちをいさめようとして上京した西郷隆盛について、反対に「命令違反をして下関から京都・大坂に向かい、志士たちをあおっている」と間違って島津久光に報告したのです。
 
 
たまたま間違ったのか、悪意のある故意だったのかは分かりませんが、単なる間違いだったら、とんでもない愚行です。その報告を聞いた島津久光は、激怒して、西郷隆盛を島流し(遠島)に処したのでした。
 
 
このときの西郷隆盛の一時的な失脚は、この海江田の発言が原因だといわれることが多いです。
 
 

「生麦事件」でイギリス人を殺傷

 
 
もう1つは、いわゆる「生麦事件」の当事者だったことです。
 
 
これは、1862年、薩摩の最高権力者・島津久光の大名行列が江戸から京に向かう途中、神奈川県の生麦村で、大名行列をさえぎったイギリス商人4人組を無礼打ちにした事件です。
 
 
このとき、1人を殺害、2人が負傷、女性1人だけ無事に逃げることができました。この事件で、深手を負ったイギリス人のリチャードソンをしつこく追いかけとどめを刺したのが、海江田信義といわれています。
 
 
この「生麦事件」がきっかけとなり、「薩英戦争」という薩摩藩とイギリスとの戦争が起こりました。
 
 
この事件そのものは、日本の大名に対する礼儀をわきまえていなかったイギリス人側の不手際なのですが、名前があがったため、海江田が目立ってしまっています。
 
 

大村益次郎の殺害事件の黒幕と疑われる

 

 
3番目の理由は、長州の大村益次郎との険悪な関係によります。
 
 
海江田信義は大久保利通に重用されますが、長州藩出身の大村益次郎と常に意見が分かれ、険悪な仲でした。
 
 
当時、幕府側の組織・彰義隊は、江戸の治安維持に役立っていましたが、それを大村益次郎は烏合の衆なので殲滅すべきと主張したのです。
 
 
海江田は、これに大反対しますが、最終的に大村の案が採用されます。しかも、 海江田が強いと主張していた彰義隊を、彼はたった1日で壊滅させるのに成功したのです。
 
 
このときに海江田は、大村に戦のことを何も分かっていないと本当のことを言われてプライドを打ち砕かれ、逆恨みしたと思われます。
 
 
その後も、事あるごとに大村とは意見が対立し、激情にかられる性格だった海江田の評判は、政府内でも不評でした。
 
 
そんなとき、大村益次郎が、大阪で暗殺をされたのです。大村を暗殺したのは、長州藩の神代直人など8名と特定されています。
 
 
その時、東京にいた海江田信義にはアリバイがあり、直接、事件に関与していないのは明白でした。
 
 
それにも関わらず、あまりにも大村に恨みありと知れ渡っていたため、未だに、大村益次郎暗殺に海江田が関与していたのではという疑惑が残っているのでした。
 
 
大村益次郎は、頭の固い偏屈な人でしたが、軍事面での能力は卓越していたと、今も当時も高評価されています。
 
 
その大村にことごとくたてついたということで、海江田信義の評判は、またまた大きく下がったのです。
 
 
彼を高く買っていた大久保利通でさえ、書簡の中で、「海江田は忍耐力が不足していて度量が狭い」と忠告しています。
 
 

おわりに


 
(1)西郷隆盛の失脚の原因を作った
(2)「生麦事件」でイギリス人を殺傷し、薩英戦争の原因を作った
(3)大村益次郎と険悪になって逆恨みし、暗殺の疑いもかけられた

 
 
有村俊斎(海江田信義)は、それでも明治新政府の中で、それなりの地位を築いていきました。
 
 
でも、当時の明治政府は、とにかく重役には、官軍の「薩摩藩」と「長州藩」の出身者を就任させているという状態でした。しかも、どちらの藩も、 もっとも有能と思われた志士たちは、戊辰戦争や幕末の混乱で暗殺されたりして、亡くなっていました。
 
 
つまり、明治新政府は、かなりの人材不足だったのです。だから、海江田のような政治家に向いていない激情型の偏屈な人が、ある程度役にありつけたといえるでしょう。
 
 
有村俊斎の評価が低い3つの理由をまとめます。
 

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