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源頼朝に愛された「亀の前」(かめのまえ)という女性を紹介します。
彼女は容貌美しく穏やかで柔和な性質で、頼朝が長く寵愛した女性と伝わります。
なんだか政子と正反対なイメージですね。
頼朝の優しい愛人
『吾妻鏡』によると、「亀の前」(かめのまえ)は頼朝が伊豆に流罪になったころから仕えていた女性でした。
生没年は不明です。
彼女は美しい人で、穏やかで柔和な性格だったそうです。癒されるタイプだったのでしょうか。
1181年に頼朝の妻・政子が懐妊したのですが、頼朝が「亀の前」を寵愛したのは、その少し前からのようです。
妻の妊娠中にきれいな愛人と浮気、よくあるパターンです。
頼朝は寵愛していた彼女を、政子の懐妊中に自分が通いやすい場所にある小中太光(こちゅうたみついえ)の小窪の邸に住まわせることにしました。
本妻・政子の襲撃
1182年8月、妻の政子が無事に嫡男となる頼家を生みました。
男児を出産してせっかく喜んでいる政子のところへ、父・北条時政の後妻の「牧の方」(まきのかた)が頼朝の浮気を知らせてしまいます。この「牧の方」はなかなかの曲者ですよ。
それを聞いた政子は予想通り大激怒!!!
その頃、ばれたらヤバいと思ったのか、頼朝は「亀の前」をより遠方の伏見広綱の屋敷に移していました。
しかし、大激怒中の北条政子は、「牧の方」の父・牧宗親に命じて伏見広綱の邸宅を襲撃し破壊させてしまいました。
「亀の前」は伏見広綱に守られながら、命からがら大多和義久の屋敷へ逃れました。
今度はこの事件を知った源頼朝が激怒し、襲撃した牧宗親の彼の髻(もとどり)を切ってしまいました。この時代、髻(もとどり)を切られることは、許しがたい恥辱を与えられたことになります。
この仕打ちに今度は「牧の方」の夫で政子の父の北条時政が怒り、一族を連れて本拠地の伊豆に引き上げてしまいました。怒りが波及していってますね。(ちなみに政子の弟・北条義時は鎌倉に残り頼朝にほめられてま。)
政子の怒りはそれでもおさまらず、「亀の前」をかくまった伏見広綱を、遠江・浜松に流してしまいました。
この政子の行為は女の嫉妬というより、もし「亀の前」が男児を出産したら後継問題に発展しかねないからという政治的な理由が大きかったと推測されます。
それにしても夫の命で愛人をかくまった伏見広綱が気の毒です。八つ当たりというかとばっちりですよね。
頼朝の寵愛はよりいっそう深く
この襲撃事件の後、頼朝はまったくこりることなく、「亀の前」への寵愛はいっそう深くなりました。いっそう政子がうっとおしくなったかもしれません。
『吾妻鏡』には、これから先の「亀の前」のことはあまり残っていないのですが、彼女が次に移された大多和義久(おおたわよしひさ)の邸(鐙摺城)のある三浦半島の記録に「亀の前」と思われる女性のことが記されています。ちなみに、大和田義久(おおたわよしひさ)は三浦義明(みうらよしあき)の3男です。
1194年、頼朝は三浦半島先端の風光明媚な土地に3つの山荘を建てました。
その山荘は、「桃の御所」「桜の御所」「椿の御所」とそれぞれ呼ばれ、「椿の御所」は冬になると椿の花が邸内を埋め尽くしてそれは見事だったそうです。
そして、そこには源頼朝の愛妾が暮らしていました。
その女性は1199年に頼朝が亡くなると、出家して妙悟尼と名乗り、頼朝の菩提を弔ったそうです。
その妙悟尼が亀の前なのではないかと推測されるのです。
だとすれば、彼女は頼朝が最期まで寵愛していた愛妾で、三浦家と血筋的に関わりのある女性だったのかもしれませんね。
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