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阿波局(あわのつぼね)は、北条時政の娘、つまり、北条政子や義時の妹にあたる女性です。
歴史の表舞台であまり目立つことはありませんが、「告げ口」ひとつで有力御家人を滅ぼすなど、結果的にかなりすごいことをしています。
明るくおしゃべり好きな軽薄な女性だったのか、それとも冷静な策略家だったのか、今となってはよくわかりませんが非常に興味深い女性です。
今回は、そんな阿波局の生涯についてお伝えします。
目次
阿波局(あわのつぼね)の生い立ち
阿波局(あわのつぼね)は、初代執権・北条時政と伊東祐親(すけちか)の娘の子として生まれました。誕生年は不詳で没年は1227年です。
源頼朝の妻・北条政子の異母妹で北条宗時と北条義時の同母妹といわれてます。
小説やドラマで「北条保子(ほうじょうやすこ)」とされることもありますが、真偽は不明です。
北条氏は、伊豆国田方郡北条(静岡県伊豆の国市)を拠点とした在地豪族(土豪)にすぎなかったのですが、姉の政子が源頼朝と結婚したことから大きな権力を持つようになっていきます。
源頼朝の弟・阿野全成に嫁ぐ
阿波局は、姉の政子と義兄の源頼朝のすすめで、頼朝の異母弟の阿野全成(あの ぜんじょう)に嫁ぎました。
阿野全成は、源義経と同じ常盤御前(ときわごぜん)の息子で、父の義朝が敗死した後、幼くして出家し「全成」と名乗りました。挙兵した頼朝の元に兄弟の中でいちばん最初に駆け付けた弟です。
駿河国阿野荘を領有したため「阿野」と名乗りました。
阿波局は、阿野全成との間に4男の阿野時元(ときもと)を生みました。
源実朝の乳母になる
1192年、頼朝の次男・源実朝が誕生すると、阿波局は甥である実朝の乳母になりました。
これで、実朝の後ろ盾は阿野全成(頼朝の弟)と北条氏に決まりました。
当時の社会では、位の高い人は子供を自分で育てずに乳母とその夫が後見人となって育てました。
そうすると、当然子供は成長するにつれて、実の親以上に養父母(乳母夫)になつくわけです。
乳母・乳母夫(乳母の夫)になるということは、大きな利権を得ることなのでした。
告げ口で「梶原景時の変」を起こした?
阿波局が歴史に登場するのは、源頼朝が亡くなってからです。
1999年、頼朝が謎の急死を遂げた後、その後継に選ばれたのは、嫡男の源頼家でした。
頼家はまだ18歳で頼朝の後を引き継ぐには荷が重すぎたため、13人の重臣たちで補佐する合議制をとることになります。(頼家の専横を防止するためとされることもある)
これが13人の合議制(鎌倉殿の13人)です。
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この13人の重臣の筆頭格で、なおかつ頼家の乳母夫だったのが梶原景時でした。
しかし、頼家が跡を継いでわずか数か月後、梶原景時は失脚してしまいます。
1199年10月25日、御家人の結城朝光が侍所(さむらいどころ)の詰め所で源頼朝の思い出にふけりこうつぶやきました。
「忠臣、二君に仕えずというが、自分も出家してそうするべきだったと悔やまれる。なにやら今の世は薄氷を踏むような思いだ」
その翌々日、阿波局が結城朝光に、梶原景時が先日の発言が謀反の意志のある証拠として讒訴し、すでに処分されることが決まったと告げたのです。
処刑されては大変とびっくりした結城朝光は、先手を打とうと友人の三浦義村のところへ駆け込みました。そして、他の御家人たちにも呼びかけて、梶原景時を糾弾する御家人たちの連判状を作成し、源頼家に提出したのです。連名した御家人の数は66名に及びました。
11月、梶原景時は頼家に釈明することなく鎌倉を去って領地に蟄居し、翌年の正月に都へ向かう道中、一族もろとも滅ぼされました。
この事件は、阿波局の結城朝光への「告げ口」(そそのかし?)が直接のきっかけになりました。
彼女が頭の軽い天然のおしゃべりでなかったなら、自分の手を汚さずに北条氏の強力なライバル、梶原景時を滅ぼしたことになります。
阿波局(北条氏)は頼家の弟の実朝の乳母(後ろ盾)でした。
そして、梶原景時が都へ向かう途中、斬り合いになった駿河は、北条氏の領地内にありました。
頼家の乳母夫の梶原景時を滅ぼすことは、頼家にダメージを与えることにつながります。
北条氏は、1203年にはもうひとりの頼家の乳母夫・比企能員も一族もろとも滅ぼしました。(「比企能員の変」)
阿波局が、ただの天然系おしゃべりだったとは到底思えませんね。
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夫・阿野全成の誅殺
梶原景時が滅びた後、比企氏と北条氏の対立が激化しました。
頼家とその後見人の比企氏 VS 実朝の後見人の北条氏
という図式です。(実朝はこのときまだ11歳)
阿波局は実朝の乳母なので、わが子のようにかわいい実朝を将軍にしたいと思うのは当然です。
そんなとき、北条氏側の阿波局の夫・阿野全成が、頼家に謀反の嫌疑をかけられ捕縛されてしまったのです。
阿野全成は常陸国へ流された後、頼家の命で八田知家の手にかかり誅殺されました。
頼家は阿波局も捕えよと命じましたが、北条政子が妹を引き渡すことを断固拒否し、助かりました。
その後、「比企能員の変」が起こり、比企一族は滅亡、頼家は鎌倉を追放、幽閉されたのち刺客の手にかかり殺害されました。
こうして、鎌倉幕府の主導権は、完全に北条氏が握ることになります。
実朝を北条時政&牧の方から守る
阿波局は、母のように(実際は乳母で叔母)源実朝を可愛がり、実朝も彼女になついていました。
実朝の周囲に気を配っていた阿波局は、「比企能員の変」の直後、北条時政とその後妻・牧の方の悪意を感じ取りました。
彼女はそのときすぐに、時政邸に実朝を置いておくのは危険だと姉の政子に伝えています。
政子は、妹・阿波局の意見を聞き入れ、すぐに実朝を自分の邸に引き取り、保護しました。
彼女の心配したとおり、北条時政は後妻の牧の方にそそのかされ、牧の方の娘婿を将軍に擁しようと画策していたのです。
しかし、時政の子の北条義時と政子がその企みを察知し、牧の方ともども父の北条時政を鎌倉から追放し失脚させました。(「牧氏の変」)
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息子・阿野時元の誅殺
1219年2月、その誕生からずっと見守り続けた源実朝が、甥の公暁に刺殺されました。
そのとき、阿波局の息子の阿野時元に謀反の疑いがかかり、北条義時の命で誅殺されています。
実の息子に謀反の嫌疑がかったわけですが、その際に阿波局が阿野時元を弁護した記録はなく、彼女の動向は不明です。
ただ、源実朝の死後、なぜか河内源氏嫡流の血統が次々と粛清されていて、執権・北条義時は朝廷に「親王将軍」を迎えたいと要請しています。
阿野時元の誅殺も、源氏の血の粛清として起こった事件ではないかという説もあります。
阿波局は、1224年に北条義時が逝き、その翌年に姉の政子が逝ったあと、1227年11月に亡くなりました。
そのとき、3代執権の北条泰時(義時の息子)が叔母にあたるという理由で30日間の喪に服しています。
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