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こんにちは。
 
突然ですが・・・
 
 
イケメンだったと言われる戦国武将って、やたらといると思いませんか?
 
 
織田信長(織田一族)、明智光秀、浅井長政、井伊直政あたりは、信ぴょう性が高いかなーと思ってすが、関ケ原で敗れた西軍の宇喜多秀家も、イケメンと名高い大名なのでした。
 
 
この人は、おぼっちゃまなイメージが強いです。育ちのよさがにじみ出ている感じ・・・
 
 
身長170㎝ほどの当時としてはかなりの長身で、スラッとした細心のイケメンだったそうです。
 
 
宇喜多秀家は、豊臣秀吉に寵愛されて(←変な意味ではありません)、若くして五大老に選ばれています。
 
 
でも、「関ケ原の戦い」では西軍側で戦ったので、処罰されてしまいました。石田三成の数少ない理解者だったようです。
 
 
処罰といっても打ち首ではなく、かなりガチで戦った割には流罪で済み、82歳で大往生を遂げています。

 
 

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10歳で岡山城主に!秀吉に可愛がられる

 

 
宇喜多秀家の父・直家が亡くなったのは、秀家が10歳のときでした。直家は秀吉に息子のことをよろしくと頼んで果てたそうです。父の意をくんだ秀吉に迎えられ、秀家は秀吉の養子として育てられました。
 
 
それからしばらくの後、まだ10歳ぐらいだった秀家は秀吉の備中高松城攻め(対毛利)に1万の兵を任されて参戦しました。そして、その戦いの戦功で、なんと50万石の所領を認められたのです!
 
 
10歳ぐらいで大大名ですよ。すごいです。家臣団がいい仕事したのでしょう。
 
 
彼は顔がいいだけでなく、とても利発な子供で、秀吉は本気で気に入っていたようです。それは、彼が豪姫を嫁に迎えたことからも、明らかなのでした。

 
 

嫁・豪姫も秀吉の超お気に入りだった

 

 
宇喜多秀家は、秀吉の養女となった豪姫を正室に迎えました。
 
 
豪姫は、前田利家&まつ夫妻の4女です。
 
 
子沢山の利家&まつが、子供のいない秀吉に豪姫を産まれてすぐにあげたのでした。(生まれる前から次の子はあげるわと約束していたらしい)
 
 
まだまだ信長が健在で、前田家と羽柴家が長屋でお隣さん生活をしていた頃の話ですよ。
 
 
その豪姫、秀吉に「男だったら関白を継がせたのに~!」と言わせるほど、利発な娘でした。秀吉は彼女に「溺愛親ばか手紙」をたびたび送っています。
 
 
そんな豪姫と結婚した秀家、夫婦仲はこれまたリア充満点のラッブラブでした。おぼっちゃん、お嬢ちゃんなので、いい感じだったのでしょう。
 
 
このままいけば、仲良し老夫婦になるまで円満だったかもしれませんが、残念ながら時代がそれを許しませんでした。

 

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「関ケ原の合戦」で西軍の主力部隊の指揮を務める

 

 
「関ケ原の合戦」で、秀家は西軍として戦い敗者になりました。
 
 
秀家は文武両道で、武将としてもそれなりに成果を残し、関ケ原でも福島正則隊を相手に奮戦しました。
 
 
なのに、それをぶち壊すような出来事が起こってしまったのです。
 
 
そう、小早川秀秋の裏切り(?)です。
 
【関連】関ケ原の戦い!東軍の勝因は小早川秀秋の裏切りだけではなかった!
 
これで、風向きが一気に変わり、東軍が圧倒的優位にが立ちました。
 
 
前線で奮闘していた彼は、小早川秀秋にブッちぎれて「差し違えてもあのアホをぶった切ってやるー!」と飛び出し、家臣たちに必死で止められたそうです。
 
 
普段は温和な人だったそうですから、相当ムカついたのでしょう。
 
 
小早川秀秋がそれからわずか2年後に、精神を病んで亡くなったのは、宇喜多秀家の祟りともささやかれております。
 
 
「大谷吉継の祟り説」ならまだ分かるけど・・・
宇喜多秀家は、生き残ってるので、生霊の祟りだったのか?
 
 
【関連】大谷吉継の病気は何だったの?関ケ原に散った義に厚い白頭巾の武将

八丈島流人第1号!生活はどんな感じ?


 
「関ケ原の合戦」で敗走した彼は、薩摩の島津家のところへ逃げかくまわれましたが、さすがに大物過ぎて見逃されることはありませんでした。
 
 
でも、妻・豪姫の実家前田家と島津家の懇願で死罪は免れ、八丈島へ流罪となりました。
 
 
八丈島への公式な流罪は、実は彼が第1号です。
秀家34歳のときでした。
 
 
八丈島での生活は、どんな感じだったのでしょう?
 
 
2つほどエピソードが残っていますよ。
 
 
「関ヶ原の合戦」の対戦相手だった福島正則の家来が、八丈島へ嵐で流されたことがありました。
 
 
その際、その家来たちに積み荷の中にあったお酒を恵んでもらい、秀家はとっても感謝したのだそうです。
 
 
もう1つは、八丈島の幕府代官に食事に招かれたときのこと。
 
 
そこでふるまわれた食事があまりに美味しくて、彼はごはんを2杯お代わりし3杯目を手ぬぐいに包んで「家の者に持って帰ってあげます」と懐に入れたそうです。
 
 
なんだか、やることが可愛いですね。
 
 
これらのエピソードから、八丈島での暮らしはかなり苦しかったのだろうと推測されています。
 
 
でも、なんだかわびしいというより、彼の人柄が表れたほのぼのエピソードのような感じのような気もします。
 
 
あまり気取ったところが、なさそうですね。
 
 
彼のような高い教養を身につけた人は、八丈島では貴重だったに違いありません。きっと、島民の教育にも貢献していたでしょう。
 
 
彼は「浮田」と姓(漢字だけですが)を変えて島で暮らし、その縁者は他の島民とは区別され特別待遇だったそうですよ。
 
 
今も、八丈島に子孫が残っています。

 
 

援助は明治までという前田家の漢気

 

 
八丈島に流されてから、彼は一度も妻の豪姫に会う事は叶いませんでした。
 
 
豪姫は実家の前田家に戻り、生活に不自由はしなかったようです。
 
 
彼女(前田家)は秀家が八丈島に立つ際に、使用人を秀家に付け、また共に八丈島に配流された2人の息子には乳母を付け、専属の医師まで同行させました。
 
 
さらに、豪姫の弟の3代目・利常の時代から、前田家は幕府(家光の時代)の許可を得て、2年に1度、金銀や米70俵、衣服、生活雑貨、医薬品などを、八丈島に送り続けるようになったのです。
 
 
宇喜多秀家は、82歳の長寿を全うしました。
 
 
そして、八丈島の「浮田家」は、秀家の2人の息子の子孫が受け継いだのです。
 
 
この前田家の八丈島への仕送りは、宇喜多秀家が亡くなった後も、彼の子孫あてに、江戸時代が終わるまで続けられたのです。
 
 
徹底していますね。これが前田家の方針なのでしょう。
 
 
明治時代になると、宇喜多秀家の子孫たちは、前田家の援助で本州へ帰還しました。最後の最後まで、代を重ねても面倒をみているところが流石ですね。
 
 
家の「誇り」を感じます。
 
 
秀家の子孫の中には、八丈島に残って宇喜多家(浮田家)のお墓を守り続けているものもいるそうですよ。

 
 
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