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こんにちは、このかです。
西郷隆盛には、3人の妻がいました。
全員同時期ではなく、順番です。
他に、京都の料亭の中居さんなど、愛妾もいましたが、今回は正式な妻に限ってお伝えします。
といっても、2番目の妻は、奄美大島の女性なので当時は厳格に差別されていて、薩摩に行くことはできませんでした。
薩摩は、琉球に近い島々の人々を軽んじていたのです。
大河ドラマ「西郷どん」で、2番目の妻・愛加那(あいかな)を二階堂ふみさんが演じます。
彼女は、明治時代に活躍した西郷隆盛の長男・西郷菊次郎の母親なので、かなりのキーパーソンなのです。
奄美大島の妻・愛加那(あいかな)
愛加那(あいかな)は、龍為志という奄美大島の名家・龍家(田畑家)の娘として生まれました。
西郷隆盛は、「安政の大獄」で追われていた京都の僧侶・月照を薩摩藩が見捨てたとき、絶望して彼と共に入水自殺しました。その後、すぐに助けられて、西郷隆盛だけが命をとりとめたのでした。
死ねなかったというのは武士の恥、また友だけ一人で逝かせてしまった負い目も加わって、西郷隆盛は自暴自棄になっていました。
それから、彼は追われる身であったので、薩摩藩に戻ることはできず、「菊池源吾」と名を変えて、鹿児島の南にある奄美大島に隠れ住むことになったのでした。
奄美大島の人々は、鹿児島(本州)の人をヤマトンチュと呼ぶ、異なる文化の人々でした。
当時の西郷隆盛は、かなりやさぐれていて乱暴者だったので、島の人々はあまり近寄らずにいたようです。おそらく島に来た当初は、島津斉彬が亡くなり、月照が死に、「安政の大獄」で多くの思想が処刑されたことなどで、頭がいっぱいで、周りに馴染もうなんて気分にならなかったのでしょう。
でも、ある日、西郷は、薩摩藩の役人が島の人々から厳しい税を取り立てているのを目にします。黙っていられなかった西郷は、役人を説得して、島の人々を助けたのでした。
そして、その事件以降、島の人々に「あれ? この人結構優しいし、頼りになるわ」と思われるようになりました。
そうして西郷は、だんだん奄美大島の人々と馴染み、しっかりそこで生活できるようになっていきました。
そうするうちに、名家の「龍家」とかかわりが深くなって、娘の愛加那が西郷隆盛の世話をするようになったのです。
そうして、仲良くなって2人は結婚し、2人の子供が生まれます。
西郷隆盛は愛加那と子供を残し薩摩に帰った
西郷は、奄美大島で家族ができて平和に暮らしていましたが、それは長くは続きませんでした。
約2年後、西郷隆盛は、菊次郎、菊草という2人のこどもと妻を残し、鹿児島に帰ることになるのです。
江戸で「桜田門外の変」が起こり、井伊直弼が殺害されて、「安政の大獄」が終わったという手紙が届いたのでした。
これで、時代が変わります。薩摩藩にとって西郷隆盛は必要だと思った大久保利通が島津久光に頼んで、西郷隆盛は奄美大島から鹿児島へ戻れるようになったのでした。
愛加那は島の女性なので、薩摩に連れて帰ることができません。そういう決まりがあったのです。
そして、今は幼いので島に残りますが、いずれ菊次郎と菊草は薩摩に戻ることになるのです。
西郷と愛加那は、西郷が後に遠島になったときに再会しました。
でも、愛加那が鹿児島に行くことは、生涯一度もなかったのでした。
西郷の島流しの出来事はややこしいですが、原作は物語なのでうまくまとめていると思います。
奄美大島にいる頃のことは「中巻」に書かれていますよ。
⇒「西郷どん」原作(中巻)レビューはこちら♪
薩摩藩の島妻制度とは?
薩摩藩には「島妻制度」という特殊な決まりがありました。
鹿児島以外の島で結ばれた妻は、鹿児島には連れて帰ることが出来なかったのです。
これは、文化の違う島の人々を、本土の人が差別的に見ていたからです。薩摩藩は藩政を立て直すために黒糖などで厳しい厳しい税の取り立てをして、この奄美の人々を黒糖地獄に陥れたのです。
右手に刺青をし、結婚したら左手に刺青をする、日本とは異なる文化の人々なのでした。
菊次郎は、長男なのに「太郎」「一郎」ではなく「次郎」です。彼は西郷隆りの長男でしたが嫡男ではなかったのです。
1865年、薩摩に帰ってから、西郷隆盛は3人目の妻となる岩山糸と結婚しました。
糸との間に生まれた長男が「寅太郎」という名です。
愛加那の子・菊次郎は7歳のときに鹿児島に引き取られ、糸が育てたのでした。
菊次郎は、その後、京都市長に就任しました。
その菊次郎については、⇒★こちらをどうぞ♪
愛加那の入れ墨⇒★「ハジチ」に隠された3つの意味はこちら!
奄美大島にいる頃のことは、原作の「中巻」に書かれていますよ。
⇒「西郷どん」原作(中巻)レビューはこちら♪
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