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こんにちは、このかです。
 
 
幕末の政局はコロコロ変わるので、学校で歴史を勉強する人にとってややこしいですね。
 
 
目立つのはテロリスト的な動きの多い長州藩ですが、実は、それは「禁門の変」までのこと、その後の「第一次薩長討伐」あたりから、政局のキーを握るのは薩摩藩に移っていきます。
 
 
長州を討伐した薩摩がなぜ、薩長同盟を結んだのかと考えると、薩摩藩のしたたかな柔軟性がうかがえますね。
 
 
それは、薩摩藩が昔から中国、韓国、オランダとの交易を独自に行うという異文化交流が下地にある地方だったこと、そして、先進的な考え方ができる藩主(島津斉彬)に恵まれたことが大きいでしょう。
 
 
そんな薩摩では、風習として「郷中教育(ごじゅうきょういく)」という独自の教育システムで男子を育成していました。

 
 

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「郷中教育」は地域の男子だけを集めた自治組織

 

 
薩摩の郷中教育は、同じ地区で暮らす男子を集めた縦割り教育です。
 
 
6歳から10歳までを小稚児(こちご)、11歳から15歳の長稚児(おせちご)、15歳以上の二才(にせ)と呼んで区別しました。
 
 
二才(にせ)の青年たちが長稚児を教育・指導し、長稚児が小稚児に生活全般を教えるという、年長者が年少者を指導する仕組みになっています。
 
 
朝から自分が尊敬する二才の家に行って、儒学や書道などの教えを受けたり、子供(男子)だけで集まって、車座になって学んだことを一人づつ発表するというコミュニケーション重視の座学でした。
 
 
勉強場所は、学校のような決まった場所はなく、子どもが輪番で地区の家にお願いして集合場所を決めていたようです。
 
 
教えを受けた年長者の考えやレベルは当然バラバラで、画一的な指導要領もなく、 考え郷中によって様々でした。
 
 
学習は講義ではなく、「詮議(せんぎ)」と呼ばれるもので、意見を述べ合うデベート形式の学習でした。
 
 
「詮議」は、いわゆるケーススタディで、仮想現実をいろいろ想定して、「もし○○が起こったら自分はどうするか」ということを、徹底的に考えさせる教育だったのです。
 
 
小さい頃から、こういう思考方法を繰り返していると、危機管理能力が養われますね。
 
 
この学びが、幕末のような前例のない時代に、非常に役立ったのは、言うまでもないでしょう。

 

 

「郷中教育」は島津義久の時代に始まった

 

 
このケーススタディが中心の詮議教育は、戦国時代くらいまでは日本中で行なわれていたのですよ。戦国の世では、有事の決断が自分の命だけではなく、一国の興亡に関わる一大事になりかねませんからね。
 
 
薩摩では、「関ケ原の戦い」に参加した「鬼島津」こと島津義弘が、朝鮮出兵の際にこの「郷中教育」を作ったといわれます。指導する成人男子が出兵でいなくなるため、子供たちだけで武人としての心得を学ぶように作ったシステムだったのです。
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つまり、この教育方法の基本は、「儒教に基づいた戦国の武士のための思想」だったのです。

 
 

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「郷中教育」は現代でも役立つ思想?

 

 
「郷中教育」の「詮議」は、コミュニケーション力を身につけ、ケーススタディを学ぶのにとてもよいシステムです。
 
 
また、自治組織の親密度が高まるので、仲間を守ろうという意識が、当然高まります。京や江戸の人々に、薩摩の人は「衆道(男色家)」が多いとうわさされていたのも、そういう精神的な密着度が高かったからでしょう。
 
 
そういう面では、人々のつながりや地域のつながりが薄くなった現代社会に、取り入れると良い面は多いでしょう。
 
 
しかし、「郷中教育」は、もともと「身分の高いものに責任を持たせる」というのが、核の目的でした。主君に対する忠義、親孝行、下の者に慈悲をかけよという理念もありましたが、根本は身分制社会の中で上位の者に対してつくられた思想でした。
 
 
つまり、強い戦士を育成するためのものだったという点、身分制社会の中での制度だったという点では、「郷中教育」は時代錯誤で使えないのです。
 
 
ですから、盲目的にすごい教育法だと思わないように、大事な部分だけエッセンスとして取り入れるとよいでしょう。
 
 
「討ち死にしてでも敵を打ち負かすのだ!」という思想は、明らかに現代のグローバル社会では危険な思想だと思います。

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