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こんにちは。
 
 
藤原道長が権力を握ったときの天皇は、一条天皇でした。この一条天皇、清少納言の上司・定子の旦那だったため、『枕草子』にもちょくちょく登場します。
 
 
『枕草子』で一番目立つのは、すんごい猫愛です(笑)

 
 
なかなかかわいい天皇じゃないと思うのですが、この一条天皇、藤原道長を相手にうまく渡り合ったなかなか優れた人物だったのです。
 
 
古典の授業で習う平安時代の小説や和歌・日記文学は、この一条天皇のころにたくさん作られたんですよ。なぜかというと、彼の2人の妻・定子と彰子のサロンに才能ある女房が集まって、才を競い合ったからなんです。
 
 
天皇に「正妻」が2人立つというのは、この時代でもなんてこった!な出来事。そんな複雑な状態に陥ったのは、あの権力欲の権化・藤原道長のせいなのでした。

 
 

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◆ 明るく聡明で美しい中宮「定子」

 

 
一条天皇は、始め正妻(中宮)に当時の関白・藤原道隆の娘・定子を迎えます。藤原道隆は、藤原兼家の嫡男で、藤原道長のお兄さんでした。
 
 
道隆はすごい美形のプレイボーイで、お酒が大好きな豪快な権力者でした。その娘の定子は、清少納言が一目会ったときから「一生ついて行きます」と言いたくなるほどの美女で、しかも漢詩もばっちりの才女だったのです。
 
 
スーパーセレブ定子は、後宮サロンの完璧な女主人でした。清少納言たち女房はみな華やかに才を競い合い、その中の誰よりも聡明で美しく優しい定子は、みんなの中心で光り輝く女王様でした。その煌びやかな様子は、『枕草子』に描かれていますよ。
 
 
そんな定子を3歳年下の一条天皇は、心から愛しました。本当に大好きだったようです。このまま定子の産んだ嫡男が次の天皇になり、幸せが続けば大団円・・・・
 
 
でも、父の道隆が病(糖尿病)に倒れ亡くなってから、中関白家に暗雲が立ち込めます。定子の不幸の始まりでした。
 
 
定子にはこれまた美男の兄・伊周(これちか)がいました。道隆の嫡男なので、順当にいけば次の権力者になります。でも、道隆には弟がいたのです。(もう1人の弟・兼家は「七日天下」ですぐ病死)
 
 
それが、藤原道長でした。ここから、息子・伊周と弟・道長の権力闘争が始まるのでした。
 
 
勝利したのは、道長でした。伊周は左遷されて、その妹の定子は、ショックのあまり髪をおろしてしまいました。このとき実は、定子は一条天皇との1人目の子供を身ごもっていたのです。
 
 
定子が髪を下したと聞いた一条天皇は、それはならんと定子を連れ戻しに行ったのでした!
 
 
すごい行動力、愛の力ですよ。普通は、多分生まれた子だけ引き取るでしょう。
 
 
このときの一条天皇は、貴族たちの大反対を押し切り、母となぜか道長を味方につけて、遠慮する定子を無理やり連れ帰ったのだそうです。
 
 
でも、定子は立場上、とても戻れない状態だったので、日の当たらない妙な物か出そうな御所のすみっこに追いやられたのでした。おまけに、宮中には、「よく戻ってこれたよねー。」と意地悪く噂する人も多かったのです。
 
 
後宮に戻っても針のむしろ、それでも定子は、一条天皇の愛だけにすがって、後宮で静かに戦いました。清少納言も、もちろんそれに付き従っていました。(一旦お暇をもらったけど戻ってきた)
 
 
そして、一条天皇は、そんなすみっこに人目を忍んで足しげく通っていたそうです。この愛の力、マジですね。
 
 
その後、定子は、元のきれいなお部屋に戻ることができ、落ち着けたようです。でも、3人目の子供の産むとき、分娩時のトラブルで亡くなってしまったのでした。
 
 
清少納言は『枕草子』に、つらく哀しい定子の姿、没落した中関白家の様子を、まったく描いていません。
 
 
明るく聡明でこのうえなく美しい定子様、それを取り巻く一条天皇と中関白家(道隆一家)の美しい人々・・・
 
 
『枕草子』に描かれる定子のサロンは、常に幸せに満ち光り輝いています。
 
 
それを書いた(書かなかった)清少納言の心情を思うととても、切ないのでした。

 

 

◆ 大人しく思いやりのある幼い妻・彰子

 

 
999年、藤原道長は、自分の娘・彰子(しょうし)を一条天皇の「正妻」に据えました。なんども一条天皇にプレッシャーをかけて、ゴリ押しで入内させたのです。
 
 
このとき道長が考えたのは、一条天皇が定子を手放さないのはわかっていたので、「彰子を中宮」にし「定子を皇后」という肩書にシフトさせるという強引なものでした。
 
 
定子の心情はいかほどだったでしょう。
彰子は定子の11歳年下の従妹でした。
 
 
定子はすごくよくできた女性だったようなので、彰子から見ればきれいなお姉さんだったのかもしれません。(会っていればですが)
 
 
中宮になったとき彰子は12歳でした。一条天皇とは8歳の年齢差があります。そして、彼女は大人しく心の優しいおっとりした女性でした。
 
 
道長は、「彰子のサロン」をかつての「定子のサロン」のような華やかなものにしようと考えました。そうすると一条天皇の御渡りが頻繁になる→皇子が生まれると考えたのです。
 
 
それで才女をスカウトし、紫式部、和泉式部、赤染衛門、伊勢大輔などが彰子サロンに集結したのでした。
 
 
でも、彰子の女房たちはその女主人に似て、野暮ったく、男性高級官僚たちの人気はいまいちだったようです。
 
 
彰子は優しい人だったのだろうと思います。なぜなら、彼女は定子の息子・敦康(あつやす)親王を、慈しんで育てたからです。彰子が中宮になって2年後に、定子は3人目の子の分娩が原因で亡くなったのでした。
 
 
彰子と一条天皇の間には9年間、子供ができませんでした。道長は、もちろん彰子の息子を天皇にする気満々でしたが、生まれなかったときのために、定子の子・敦康(あつやす)親王をキープしておこうと考えたのです。
 
 
彰子は定子の子・敦康親王をとてもかわいがっていたと記録に残っています。敦康親王は、両親の気質を受け継いで、とても優秀で人柄の良い人物でした。
 
 
でも、その後、1008年に彰子が一条天皇の皇子、第二皇子敦成(あつなり)親王を出産しました。
 
 
一条天皇は、愛する定子の忘れ形見・敦康親王を次の天皇にしたいと考えていました。そして、彰子も一条天皇の心を汲んで、同じように願っていたのでした。
 
 
でも、それは叶えられませんでした。

 
 

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◆ 天皇になったのは彰子の息子だった

 

 
1011年、一条天皇が崩御すると、次の天皇に三条天皇が立ち、定子の息子・敦康親王ではなく道長の娘・彰子の息子・敦成親王が皇太子になりました。後の後一条天皇です。
 
  
そして、ようや藤原道長は摂政になったのです。結局、権力者・藤原道長の思い通りになったというわけです。
 
 
一条天皇と2人の后は、奇妙な関係ではありますが、お互い信頼し合っていたように想われます。
 
 
そして、『栄花物語』には、彰子が一条天皇と自分の意向を無視して敦成親王を皇太子にした父の道長を恨んでいたと記されています。
 
 
敦康親王は、その後は、邸で歌合や法華八講を催し、風雅の道に生きました。そして、病で20歳の若さで亡くなったのです。
 
 
彼は、平等院鳳凰堂を建てた藤原頼道(道長の嫡男)と仲がよかったそうですよ。
 
 
藤原頼道と道長は、こちらの記事で紹介しています♪

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