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こんにちは。
後にフランス王妃となるマリーアントワネットは、ヨーロッパの名門ハプルブルグ家の皇女として誕生しました。
母は、めちゃくちゃやり手のスーパーウーマン・マリアテレジアです。
そんな凄腕の母親の元に生まれ育ったので、だたのアホなはずがありません。でも、どちらかというと、他の兄弟よりはお勉強が得意ではなかったようです。
彼女は、座学よりもダンスや音楽に興味と才能があったようです。これはなんだか納得です。
マリーアントワネットは、革命直後と王政復古(アンシャンレジーム)後、そして現在と、その評価がコロコロ変わってしまった人です。
ここでは、シュテファン・ツヴァイクの『マリーアントワネット』を参考にして、お伝えします。
◆マリーアントワネット誕生
1755年11月2日、マリア・アントーニアは、神聖ローマ皇帝フランツ1世とオーストリア女大公マリア・テレジアの11女としてウィーンで産まれました。
正式名がすごいんですよ。いきますよ。
マリア・アントーニア・ヨーゼファ・ヨハンナ・フォン・ハプスブルク=ロートリンゲン
です。(*´Д`)
もちろん、覚える必要ないです。
小さいころからお転婆で、とってもチャーミングだったマリーアントワネット。
ハプルブルグ家特有のちょっとしゃくれたあごと、母親譲りの青い眼とブロンドの髪をして、天真爛漫に育ちました。
マリーアントワネットは、ダンスやハーブ、クラヴサンなどの演奏が得意だったそうです。音楽の先生は、作曲家のグルックでした。
◆姉のマリア・カロリーナと大の仲良し
彼女にはたくさんの兄弟がいました。その中でもっとも年が近かった3歳年上のマリア・カロリーナとは、ずっと同じ部屋で育てられて、すごく仲がよかったのです。
マリア・カロリーナは、母・マリア・テレジアにもっとも性格がよく似ていて、勉強が得意な聡明な落ち着いた皇女でした。
マリーアントワネットとは対照的だったので、かえって姉妹として相性がよかったのかもしれません。
母のマリアテレジアは、この2人のそれぞれの個性を引き立てるため、養育方法をかなり区別していたようです。
実は、フランス王妃になる予定だったのは、姉のマリア・カロリーナだったのです。でも、ナポリ王に嫁ぐ予定だったその上の姉、マリア・ヨーゼァが天然痘で急死したため、順番が繰り上がって、マリア・カロリーナがナポリ王に、マリーアントワネットがフランス王に嫁ぐことになったのでした。
2人は、マリア・カロリーナが嫁ぐまで、同じ部屋で仲良く暮らしていました。
マリアテレジアの宮廷は、とっても家庭的で、マリーアントワネットたちは、小さいころから家族そろって狩りに出かけたり、バレエやオペラを観に行ったりしたそうですよ。
◆マリーアントワネットの結婚はフランスとの同盟だった
当時のオーストリアは、プロイセンの脅威にさらされていて、伝統的な外交関係を変えなければいけませんでした。オーストリアはフランスと、ずっと仲がわるかったのですが、ここにきて同盟関係を結ぼうとしたのです(外交革命)。
そのため、マリーアントワネットが、国王ルイ15世の孫ルイ・オーギュスト(後のルイ16世)と政略結婚することになったのでした。
1770年5月16日、マリア・アントーニアが14歳のとき、フランス王太子のルイとの結婚式が行われました。
式場はヴェルサイユ宮殿です。
このときから、マリア・アントーニアはフランス王太子妃マリー・アントワネットとなったのでした。
フランスの宮廷は、マリーアントワネットにとって、冷たいものでした。
それはまた、次回お伝えします。
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