この記事を読むのに必要な時間は約 13 分です。


 
こんにちは。
 
 
フランスの国王といって真っ先に思い浮かぶのは、この人ルイ14世です。17世紀フランス王国に「 絶対君主制 」を確立した太陽王です。
 
 
彼の時代からフランス革命までは、そんなに時が経っていないのですよ。
 
 
実際には、フランスの国庫が貧窮する原因を作った王ともいわれます。
 
 
ルイ14世は、どんな人物だったでしょう?

 
 

スポンサーリンク

◆72年間というフランス史上最長の在位期間

 

【出典元・Wikipediaルイ14世】

 
ルイ14世の父・ルイ13世は、23年間子供がいませんでした。
 
 
ルイ14世は、たった一人の子供で、父が36歳の時に生まれたのです。そして、ルイ13世が41歳で亡くなると、4歳でフランス国王に即位したのでした。
 
 
彼の在位期間は72年で、これはフランス史上異例の長さでした。
 
 
とはいえ、幼年期は自分で采配を振るうことはできないので、母のアンヌ・ドートリッシュと宰相マザランの思うがままでした。
 
 
ルイ14世が22歳のとき、宰相のマザランが死に、これ以降ルイ14世は、親政を開始しました。
 
 
彼は、マザランのライバルだったコルベールを重用し、重商主義政策をとりました。

 
 

◆絢爛豪華なヴェルサイユ宮殿を建設

 

 
ルイ14世は、ヴェルサイユ宮殿を建築した王としても知られています。
 
 
彼は、フロンドの乱や貴族に思うがままに扱われていたパリでの幼少期の暗い想い出と訣別するかのように、郊外のヴェルサイユに絢爛豪華な宮殿を作ったのです。
 
 
この宮殿は、元は父のルイ13世の狩猟用の別荘でした。それを大幅に増築して、セーヌ川から運河を引いて大改造したのです。
 
 
この豪華な宮殿に、ルイ14世は多くの貴族を住まわせて、毎日豪華な暮らしをさせたのでした。
 
 
これは、日本の江戸時代の参勤交代のように、貴族の財力を削ぐのが目的だったといわれますよ。
 
 
このルイ14世のころは、フランスがヨーロッパ文化の中心とみなされるようになりました。(それまでヨーロッパ文化の中心は、ルネッサンスの発祥地イタリアでした)

 
 

スポンサーリンク

◆暮らしの多くを規則化した儀礼大好きな王

 

 
ヴェルサイユ宮殿での貴族たちの暮らしは、贅沢三昧でパラダイスだったでしょうか?
 
 
実は、そうでもなかったようなのです。
 
 
というのも、ルイ14世は、すっごく規律正しくて、自ら毎日同じ時間に同じことをする生活を好みました。
 
 
起床から就寝まで毎日の行動はすべてマニュアル化されていて、王が今どこで何をやっているのか、時計を観れば誰でも分かったそうなのです。
 
 
このころから、王と王妃の生活をすべて公開し、王族にプライベートの時間がなくなりました。
 
 
朝の起床からすべて儀礼化されていて、起床の儀も食事のセレモニーもすべて、許可された100人ほどの貴族を招きその面前で行っていたのです。
 
 
ルイ14世ってちょっと変ですね。プライバシーはいらないんでしょうか?
 
 
彼はともかく、他の人はやはりプライベートタイムも欲しかったようで、ルイ14世の死後、15世は王専用のお部屋や別荘を作り、だんだんこの息詰まる規則をゆるめていきました。
 
 
それを、もっともしたがったのが、15世の次のルイ16世妃・マリーアントワネットでしょう。
 
 
束縛を嫌い自由を愛する彼女は、夫が国王になると、できる限りの規則を取っ払っていきました。

 
 

◆戦争三昧だったルイ14世

 

 
ルイ14世の親政時代、財務大臣・コルベールによる財務対策で、フランスは財政再建に成功しました。これで、ヨーロッパでも大きな文磁力を持つ国へとなったのです。
 
 
そうして、ルイ14世は在位中に4度にも及ぶ領土侵略戦争を行いました。
 
 
南ネーデルランド(ベルギー付近)の領土獲得戦争から、オランダ、イギリス、スペインとの侵略戦争に乗り出したのです。
 
 
・南ネーデルランド継承戦争
・オランダ侵略戦争
・ファルツ継承戦争
・スペイン継承戦争

 
 
これらの戦争で、フランスは莫大な軍地費を使いましたが、戦果はわずかでした。
 
 
そして、そのしわよせは国民に重税としてのしかかったのです。
 
 
ルイ14世の晩年は、フランスの太陽はすでに沈みかけていて、このままうまく財政再建できなければ、危険な状態になりつつあったのです。
 
 
そうして、ルイ15世時はなんとか持ちこたえたものの、次のルイ16世の時代に、市民の不満が革命となって大爆発したのでした。

 

 

◆ルイ14世の特徴と逸話

 

 
絶対王政といえばこの王というほど有名な君主なので、逸話もたくさん残っています。
 
 
今日はその中から特によく知られている4つの逸話をご紹介します。

 
 

1.バレエが得意

 
 
フランスの宮廷では、バレエや音楽のたしなみは、かなり重要視されていました。
 
 
なので、貴族の子女は幼少期から熱心にバレエや楽器の演奏を学んだのです。
 
 
ルイ14世は、バレエの才能があって、とっても上手だったのだそうですよ。
 
 
当時のバレエは、今のくるくる回るバレエとは違って、ステップ中心の踊りやすそうなものだったのですが、王が積極的にこれを広めたので、フランス貴族の間ではバレエは大いに流行しました。

 
 

2.背が低いのがコンプレックス

 

 
ルイ14世は、身長が160cmぐらいしかなかったそうです。
 
 
フランスの貴族は、たいてい高身長なので、これはかなりのコンプレックスだったと思われます。
 
 
ちなみに、15世も16世も立派な体格をしていたそうです。
 
 
それで、彼が高いピンヒールのハイヒールをはいていたのは、よく知られています。
 
 
肖像画でも、真っ赤なハイヒールをはいているものが残っています。今のファッション感覚で見ると、女子しかはかないので変な感じがしますが、当時は、普通のオシャレだったのかもしれません。
 
 
王は常に一目に晒される立場なので、見た目の印象にも、気をつかっていたのでしょう。

 
 

3.愛人がたくさんいた

 
 
ルイ14世は好色で、たくさんの愛人がいました。
 
 
王妃はスペイン王女・マリーテレーズでしたが、政略結婚にありがちな冷めた夫婦仲でした。
 
 
王の愛人は一夜の恋を含めると、それこそ星の数ほどだったので到底確定できません。
 
 
特に長期間、王の寵愛を得ていた女性は、モンテスパン夫人マントノン夫人です。
 
 
モンテスパン夫人はたいそう美しく王の公式寵姫でしたが、なーんと前代未聞の黒ミサ騒動を起こし、毒殺事件にも関与していたなど疑われ、王の寵愛を失いました。
 
 
マントノン夫人は、敬虔なキリスト教徒で、ルイ14世最後の愛人でした。王は彼女と「秘密結婚」までしていて、最期まで深い信頼をおいていたのでした。
 
 

4.「朕は国家なり」とは言ってない?

 

 
ルイ14世の名言として有名な言葉に、「朕(ちん)は国家なり」というのがあります。
 
 
「私自身が国家なのだ」という傲慢発言ですが、なぜこんな大口をたたけのか考えてみましょう。
 
 
実は、フランスやドイツは地中海貿易で栄えていたイタリア都市国家と違って、中世以降はまだまだ辺境のような地方都市でした。他民族国家でしっかりした王権が確立されていなかったのです。
 
 
そんな地方を、72年という在位期間の多くを使って、ルイ14世は絶対君主国家フランス王国として確立させたのです。
 
 
そういう強い自負心があったのは、もっともでしょう。
 
 
でも、この言葉はルイ14世自身が言ったのではないという説が有力なのです。いくらなんでもこんな調子に乗った発言はしなかったようなのでした。

 
 

◆ルイ14世の年表


・1638年(1歳)
 パリ近郊サン=ジェルマン=アン=レーで誕生
 
・1643年(4歳)
 ルイ13世が死去。わずか4歳でフランス国王に即位
 
・1660年(21歳)
 スペイン王の娘マリー・テレーズと結婚
 
・1661年(22歳)
 宰相マザラン死去。事実上、ルイ14世が全権を握る
 
・1667年(28歳)
 南ネーデルランド継承戦争
 
・1672年(33歳)
 オランダ侵略戦争
 
・1682年(43歳)
 ヴェルサイユ宮殿を建築。
 
・1688年(49歳)
 ファルツ継承戦争(第二次英仏百年戦争)
 
・1701年(62歳)
 スペイン継承戦争
 
・1715年(76歳)
 ルイ14世崩御
 曽孫のルイ15世が玉座に

 
 
フランスはルイ15世の孫のルイ16世の時代に「フランス革命」が起こります。
 
 
それらの関連記事はこちらにお伝えしています。合わせてどうぞ♪

     ↓


 

 

 
 
 

スポンサーリンク